『ベルグリーズ軍記』の虚実
―「奸臣」ヒューベルトは帝国を滅ぼしたのか―
ヴィートゥス=エルツベルガー
要 旨 『救国王記』や『聖教会聖戦史略』と並んで三大統一戦争年代記の一つとされる『ベルグリーズ軍記』は,統一戦争前後のフォドラ史を論じる上でたびたび引用され,フォドラ地方の人々が統一戦争に対して抱く認識の形成に多大な影響を与えてきた。『ベルグリーズ軍記』の中では,宮内卿ヒューベルト=フォン=ベストラはアドラステア帝国滅亡の原因を作った奸臣と評されており,これが広く信じられてきた。本稿では,『ベルグリーズ軍記』のそうした記述について他の史料との比較をしながら,その妥当性について再検討する。
1.はじめに
『ベルグリーズ軍記』(以下,「軍記」と呼称する)の著者であるディーテリヒ=フォン=パティッツは,アドラステア帝国の六大貴族の一角であるベルグリーズ家に仕える帝国騎士の家に生まれた。生年は1162年であり,最後の皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグや救国王ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドとは同い年にあたる(1)。
1180年の大樹の節(4月)から1年間ガルグ=マク士官学校に生徒として通っており,エーデルガルトやヒューベルトと同じ学び舎で過ごしていたという経歴の持ち主である。「軍記」が研究者から注目され,一般の人々にも広く読まれた最大の理由がここにある。
統一戦争開戦後は実家に戻り,その後騎士として略式の叙任を受け,軍務卿ベルグリーズ伯指揮下で従軍した。終戦後は母親の実家であった商家の手伝いをするようになる。
その後,父親がベルグリーズ家の重臣であったかつての上司から,形見分けとして陣中日誌や終戦直後に書いた備忘録などを受け取り,父を通じてそれらに目を通したことが「軍記」を著すきっかけになったという(2)。陣中日誌や備忘録は現存しておらず,このベルグリーズ家の重臣が具体的に誰を指すのかは明らかにされていない。
前書きで皇帝崩御から12年という記述があり(3),成立時期は1198年とされる。成立年代が比較的早いという点も,「軍記」が研究者から重視されてきた理由の一つである。
ディーテリヒは,前書きの中で「軍記」を著した目的を「帝国最後の聖将であるベルグリーズ伯の顕彰と,先の戦争で命を落とした全ての戦没者の鎮魂のため」だと説明している。ここで注目すべきは「ベルグリーズ伯の顕彰」の方である。ヒューベルトが亡国の奸臣に仕立て上げられた最大の理由がここに存在する。この点については後述する。
2.開戦に至るまでの「軍記」の記述
「軍記」ではまず,帝国の藩屏として千年の歴史を誇るベルグリーズ家の由緒や歴代当主の業績について大まかな解説がなされる。このあたりは年代記というよりも家記としての性格が強い。
その後,1180年の大樹の節(4月)から1年間,主にガルグ=マク士官学校や帝国で起きたことについて記述した章へと移る。このあたりから年代記としての性格が強くなるが,一方でディーテリヒ自身が士官学校で過ごしていたこともあり,時折著者の視点で書かれた感想が挟まれる部分があり,このあたりは回顧録にも近い。
当時のガルグ=マク士官学校は出身国によって学級が分かれており,帝国出身者で構成される学級は「黒鷲の学級」と呼ばれていた(4)。ディーテリヒはここで初めてエーデルガルトやヒューベルトと対面する。この年は他に,フェルディナント=フォン=エーギル,カスパル=フォン=ベルグリーズ,リンハルト=フォン=ヘヴリング,ベルナデッタ=フォン=ヴァーリらが在籍しており,皇族や上級貴族の子女が居並ぶ珍しい年であった。ディーテリヒは彼らとの邂逅を以下のように振り返っている。
皇族の方から見れば陪臣の端くれに過ぎない自分などは,皇女殿下に対して話しかけることさえ畏れ多いことであり憚られた。それに対し,大貴族出身の生徒達は入学前からの顔見知りであるためか,皇女殿下に対しても臆さずに気安く話しかけており,この時自分はガルグ=マク士官学校が,雲の上の人達が集まる場所なのだということを思い知らされた。(5)
帝国では,爵位を持つ貴族の多くが帝都アンヴァルに屋敷を構え,1年の多くを帝都で過ごしていた(6)。このために,貴族の子女同士が顔を合わせる機会は多く,彼らにとってはエーデルガルトも見知った存在であった。騎士や地方領主のような主に自領で過ごす,いわゆる準貴族との温度差が垣間見える一幕でもある。
士官学校の1年間において,エーデルガルトや大貴族の子女達がどのように過ごしていたか,「軍記」は日常の何気ない挿話も交えて書き綴っている。
エーデルガルトに関しては,筆者の遠慮もあるのか私的な日常の場面は殆ど無いが,授業では常に勉強熱心で,模擬戦では斧を片手に比類なき武勇を振るい,飛竜の節(10月)に行われたグロンダーズ鷲獅子戦(学級対抗戦)では戦術家としての力量も見せた,といったようにエーデルガルトが文武両道の模範的な生徒であったと好意的に記している(7)。
上級貴族の子女の中で特に言及が多いのは,フェルディナントとカスパルの両名である。フェルディナントは相手が主筋のエーデルガルトでも,準貴族出身の生徒であっても,身分に捉われず率直に意見をぶつけ合うことを望んだと記されており,何物にも物怖じしない態度と,公爵家の嫡子としての社会的責任を果たそうとする清廉さが,ヒューベルトに疎まれる原因になったと「軍記」は評論している(8)。この時点で既に後の「奸臣」ヒューベルト像への伏線が張られている。
カスパルは著者から見て主君の子息にあたる人物ではあるが,嫡子ではなく次男ということもあってか,他人の喧嘩によく首を突っ込む,考えるより先に手が出やすい直情的な性格であったと記されており,やや遠慮の無い書き方になっている。一方で,喧嘩をした相手ともいつの間にか仲良くなっている,気持ちの良い好漢であったとも「軍記」は評している(9)。
天馬の節(2月)に帝都に帰還したエーデルガルトはイオニアス9世より皇位を継承し新たな皇帝となる。以前から軍務卿ベルグリーズ伯,内務卿ヘヴリング伯,外務卿ゲルズ公の支持を得ており,皇帝の座に就くやいなや宰相エーギル公,教務卿ヴァーリ伯,宮内卿ベストラ侯を更迭する。更にベストラ侯は実子であるヒューベルトの手によって処刑された(10)。
「軍記」では新皇帝エーデルガルトによる一連の権力闘争を,この迅速果断な処置こそが覇者としての器量であり,ベルグリーズ伯はその器量を見抜いていたからこそ陛下を支持しこれに協力した,と評論している(11)。
一方でヒューベルトに対しては,陛下の歓心を買うために父親を処刑したのは人徳に欠けた振る舞いであり,帝国人の多くはヒューベルトの酷薄さを恐れるか,軽蔑するかのどちらかであったと批判している(12)。
弧月の節(3月)になると,エーデルガルトは帝国の内外に向けて即位を宣言し,セイロス聖教会に対して宣戦を布告する(13)。月末の卒業を控えていた士官学校の生徒達にとってはまさに青天の霹靂であった。
士官学校は,聖教会の総本山であるガルグ=マク大修道院と併設されており,帝国軍の攻撃目標となることから,生徒達は士官学校から避難するか,残って帝国軍と戦うかの選択を迫られることとなった。
著者のディーテリヒも,この時ばかりは陛下の即位を祝うよりも,この先どうなるのかという不安の方が勝ったと,率直な感想を記している(14)。
また,父親が失脚し自身の身分も危うくなったフェルディナントに対しては,いつも自信に満ち溢れていた彼がこの時ばかりは別人のような憔悴ぶりでいたたまれないことであったと,同情的な書き方をされている(15)。
その後,士官学校を離れ実家に戻ったディーテリヒと入れ替わるように,エーデルガルト率いる帝国軍がガルグ=マクへと押し寄せ,ここから五年半に亘るフォドラ統一戦争の火蓋が切られた。
3.開戦からディミトリ帰還までの「軍記」の記述
弧月の節の末に戦端が開かれたガルグ=マクの戦いにおける帝国軍の第一陣の陣容は,総大将エーデルガルト以下,エーデルガルトの懐刀である宮内卿ヒューベルト,死神騎士の異名で知られたイエリッツァ=フォン=フリュム,カスパルの義理の叔父にあたるランドルフ=フォン=ベルグリーズ,エーデルガルトの近衛兵長ラディスラヴァがいた(16)。
「軍記」ではランドルフのことは一貫してファーストネームしか書かれておらず,フォン=ベルグリーズの部分は省かれている。カスパルの義理の叔父であることにも言及が無い。
1168年にベルグリーズ家では,当時の当主が長男ではなく後妻の連れ子であるランドルフに家督を継がせようとして,強制的に隠居に追い込まれるという御家騒動が起きていた。ベルグリーズ家の家臣団にとってランドルフは,いわば抹消したい過去の存在であり,「軍記」もこうした家臣団の立場を反映した記述となっている(17)。
この戦いで帝国軍の第一陣は当初,苦戦を強いられた。セイロス聖教会が保有する常備軍であるセイロス騎士団が当時フォドラ屈指の精鋭部隊であったことに加え,ファーガス神聖王国出身の士官学校生の多くが,ガルグ=マクに残留し帝国との戦いに身を投じたためである。その中には統一戦争最大の英雄であり,後に救国王と称されることになる王子ディミトリの姿もあった(18)。
更に彼らを指揮していたのは,統一戦争において救国王ディミトリと並び称される活躍をしたベレトであった。統一戦争終結後に大司教に就任する彼は,この時は士官学校の教師であった。彼らの獅子奮迅の活躍により,エーデルガルトは戦場で負傷し一時的に後退を余儀なくされる(19)。
エーデルガルトにしてみれば,親征により武威を示すことで自らの求心力をより高めたいところであったが,その思惑はやや外れた格好となった。戦いそのものは後続の軍勢が到着して以降は,数で圧倒する帝国軍が犠牲を払いながらも勝利し,ガルグ=マクを制圧した。
この戦いの最中にベレトは行方不明となっており,崖から転落して死亡したという誤報が両軍の間で流れた。「軍記」によれば,この報告を聞いたエーデルガルトは自分のところに来てくれればと,その将器を惜しみ嘆息したという(20)。後にベレトが統一戦争の英雄となる結果から逆算して生まれた,文学的潤色による創作と見る向きもあるがどうだろうか。
ベレトが王国内で起きた反乱の鎮圧やグロンダーズ鷲獅子戦での活躍など,開戦前から既にその実力の一端を発揮していたことを踏まえれば,エーデルガルトが部下に欲したとしても不自然とは言えず,むしろ蓋然性は高いとも考えられる。
1181年,ファーガスでは王都フェルディアでクーデターが発生する。フェルディア政変とも呼ばれるこのクーデターで,王家に仕える魔道士であるコルネリアがディミトリの伯父であるイーハ大公リュファスを殺害し,その罪をディミトリに着せ処刑しようとした。ディミトリには逃亡されるものの,フェルディアを含む王家ブレーダッド領の掌握には成功。自らの国をファーガス公国と称し,帝国の傘下に入ることを表明した(21)。
コルネリアはエーデルガルトの伯父であるアランデル公フォルクハルトと以前から通じており,そのため帝国と公国の協力態勢の確立はスムーズに進んだ。情勢が大きく帝国に傾いたことで,ローベ伯を初めとする王国の西部諸侯の多くが帝国に臣従し,帝国はその支配領域を一気に拡大させた(22)。この時の帝国はまさに破竹の快進撃であり,フォドラ統一は時間の問題であるかのように見えた。
しかしながら「軍記」によれば,ベルグリーズ伯はこの状況を手放しで喜んではいなかったという。ガルグ=マクの戦いの際,ベルグリーズ伯はフォドラ西部に向けて軍を進めており,本来王国の攻略はベルグリーズ伯に任されるはずであった(23)。
しかしながらフェルディア政変以降,フラルダリウス公やゴーティエ辺境伯を初めとする王国残存勢力を掃討する役目はコルネリア率いる公国軍が主体となり,ベルグリーズ伯傘下の軍は公国の援軍ないしは後方支援という形となった。西部諸侯の調略に関しても,エーデルガルトはヒューベルトの智略を信頼し彼に多くの権限を与えたため,ベルグリーズ伯はヒューベルトの後塵を拝する格好となった(24)。
皇帝陛下は,ベルグリーズ伯やヘヴリング伯といった帝国の重鎮よりも,ヒューベルトのような一部の側近やアランデル公のような身内の方を信用し重用しているのではないか,ベルグリーズは重要な政策決定の場から外されようとしているのではないか,そのようなベルグリーズ家の先行きを案じる声が,ベルグリーズ家臣団の中から次第に漏れ聞こえるようになったという(25)。
1182年までは順調に支配領域を広げてきた帝国であったが,1183年以降はフラルダリウス公やゴーティエ辺境伯らの善戦に加え,コルネリアが公国で苛政を強いたことによる農民の逃散や一揆の多発,帝国軍の占領支配に抵抗するゲリラの発生などもあり,帝国はその支配領域を僅かに広げるだけで,戦局は明らかに膠着状態となっていた(26)。
この停滞期間を「軍記」はどのように伝えているか。野戦築城からの敵軍との睨み合いの様子,ファーガスの冬の寒さに苦しむ末端の兵士の声,冬用軍服の支給を求める前線の指揮官の要請,帝国軍小隊への反帝国ゲリラによる突然の襲撃,王国内での帝国将官の惨殺事件などが記されている(27)。華々しい記述は少なく,それどころか陰鬱とさえいえる。予想以上の苦戦の中で戦争の厳しさを,従軍していた筆者自身が感じ取っていたのではないだろうか。
4.ディミトリ帰還から終戦までの「軍記」の記述
1185年の星辰の節(12月)に,それまで消息不明であったディミトリは士官学校生として1年の時を過ごしたガルグ=マクへと帰還した。そこでディミトリは,恩師であるベレトや,かつての級友達,旧臣である王国騎士ギュスタヴらと再会する(28)。『救国王記』の中では「誓いの日」と呼ばれ,歌劇や小説などあらゆる媒体で何度も取り上げられた,統一戦争で最も有名な一幕である。
この段階ではディミトリやベレトの帰還を帝国軍は把握していなかったが,この少し後にギュスタヴからの呼びかけに応じてセイロス騎士団がガルグ=マクに集結した際はこの動きを掴んでおり,ランドルフがガルグ=マクを攻略するため進軍を開始,守護の節(1月)の末に両軍の間で戦端が開かれた。
ガルグ=マク籠城戦,または第二次ガルグ=マクの戦いと呼ばれるこの戦いは王国軍とセイロス騎士団の連合軍が完勝を収めた。連合軍に殆ど被害が無かったのに対し,帝国軍はランドルフが戦死,その他将兵も殆どが戦死か行方不明という殲滅状態であった(29)。
「軍記」ではこの戦いについて,ガルグ=マクの外縁部で野戦築城し睨み合いを続けながら本国からの増援を待ち,増援到着後に総攻撃を仕掛ければ確実に勝てたものを,武功を独占するために先駆けを行い,あまつさえ陛下からお情けで貸し与えられたフレスベルグ家の兵力を損じるとは愚行の極みであると,ランドルフを痛烈に批判している(30)。
しかしながら「軍記」のこの批判は結果を知っている者の後知恵に近い。というのも,守護の節は1年で最も寒い時期であり,ファーガス北部ほどではないにしろ山上にあるガルグ=マク大修道院は寒冷な気候であった。アドラステアの温暖な気候に慣れている帝国兵の多くは冬季戦を敬遠しており,冬季の野戦築城は現場の兵からは最も嫌がられる任務であった(31)。例えランドルフ以外の将が任されていたとしても短期決戦を挑んでいた可能性は高く,武功を独占するための先駆けとは言い難いのである。
もっとも,『救国王記』ではランドルフのことを,挑発に乗った挙句火計に掛かり他愛なく敗れたと評しており(32),『聖教会聖戦史略』の記述も似たようなものである(33)。ランドルフが愚将であること自体はどの陣営の見解も一致している。
天馬の節にフラルダリウス公ロドリグと合流し戦力を増強した連合軍は,弧月の節には帝国領に向けての反攻作戦を開始した。まず手始めに,レスター諸侯同盟における反帝国派の筆頭,リーガン家の当主クロードに協力を要請。親帝国派のグロスタール家の兵力を引きつけてもらう約束を取りつけた。その上で同盟領と帝国領を分かつアミッド大河を越えるべく,ミルディン大橋へと進軍した。
戦略的要所であるミルディン大橋の防衛を任されていたのはラディスラヴァであり,更にこれに援軍として帝国からフェルディナントが,同盟からはグロスタール伯の嫡子であるローレンツと地元の小領主であるアケロンが加わった。こうして両軍の間で戦端が開かれた。
ミルディン大橋の戦いと呼ばれるこの戦いはまたしても王国・聖教会の連合軍が勝利した。帝国側はラディスラヴァ,フェルディナント,ローレンツ,アケロンがことごとく戦死し,帝国軍の残存兵力は命からがら敗走したという(34)。
この後,嫡子の戦死により意気消沈したのか,あるいは時勢を見誤ったことを悟ったのか,グロスタール伯はリーガン家と講和した。事実上の降伏であったとされる。これにより5年に亘り小競り合いを繰り返していたレスター内戦は,急転直下での終結を見た(35)。
「軍記」ではこの戦いについて,フェルディナントの「悲劇性」を強調している。「軍記」によれば,フェルディナントは長引く戦乱の中,兵役や臨時の徴税を課せられる民衆の苦境に心を痛めており,特にエーギル公失脚後にアランデル公の統治下となったフリュム領にて,苛政が行われていることを気にかけていた。そこでエーデルガルトに対し,フリュム領を皇帝預かりとした上で税を一時的に減免するか,あるいはアランデル公に対し,フリュム領の領民を慰撫するよう勅令を出してほしいと上申しようとした。
しかしながら,ヒューベルトへの取次ぎの依頼はにべもなく断られ,そればかりか今のエーギル家に陛下に上申する権利など無いと面罵され,今後このような行為の一切を禁ずると通告されたという。
フェルディナントはエーギル家の未来に絶望し,更には帝国の先行きについても,今の帝国は人心を失いつつあり,このままでは帝国はフォドラを統一するより前に足元から自壊すると嘆き,悲しみの中で戦地に赴いたという(36)。果たしてこれは事実なのか。
実際にはフェルディナントは,家臣団に対して「ミルディン大橋は戦略的要所であり,この一戦は帝国の興亡を左右する一戦であるから絶対に負けることはできない。この戦いで武功を挙げれば皇帝陛下も必ずや我々の忠勤をお認め下さるので,各人には最善を尽くしてほしい」と奮起を促している(37)。エーギル家の未来に絶望している様子はうかがえず,むしろこの戦いにエーギル家再興の望みをかけていたのではないだろうか。
取次ぎをヒューベルトに断られたという件についての真偽は不明であるが,「軍記」はフェルディナントの「悲劇性」を強調しすぎている。ヒューベルトを「奸臣」に仕立て上げようという「軍記」の意図が,ここからうかがえるのである。
「軍記」ではこの後,帝都にいるエーデルガルトについて言及する。「軍記」によれば,戦略的要所であるミルディン大橋の失陥と,寵臣ラディスラヴァの戦死はエーデルガルトに大きな衝撃を与え,それと同時にディミトリとベレトが生存していると噂が事実であると確信するに至った。そのため,自らの手で決着をつけるべく,二度目の皇帝親征を決意したという(38)。
大樹の節(4月)に王国・聖教会の連合軍は帝国領内に進軍を開始,これとは別に同盟の盟主クロードも同盟諸侯を糾合して兵員を集め,帝国領内に進軍した。対する帝国はメリセウス要塞にいったん兵を集め,軍を再編成した後エーデルガルト指揮のもと進軍を開始,グロンダーズ平原にて三勢力の軍勢が激突した。『救国王記』によれば,王国側は同盟と共同戦線を張るべく使者を送ったが,ヒューベルトの放った間者により使者が殺害され,共同戦線を張る計画が頓挫したという(39)。
グロンダーズ会戦は三つ巴の混戦となりその結果,帝国側はヴァーリ伯嫡子ベルナデッタが戦死,エーデルガルトが負傷して後退した。同盟側はクロードが負傷し,同盟軍はその兵数を大きく損じた。王国・聖教会の連合軍は混戦の最中に帝国の間者がディミトリに迫り,それを庇ったフラルダリウス公が戦死したものの,総合的に見れば三勢力の中で最も被害が少なく,ガルグ=マクやミルディン大橋の時ほどの圧勝ではなかったにせよ,またしても王国・聖教会の勝利となった(40)。
「軍記」では,ベルナデッタが政敵のヴァーリ伯の子であるため,ヒューベルトによって捨て石にされたという噂が一部にはあったと紹介しつつ,陛下がそのようなことを御自らの眼前で許すはずがなく,これは単なる雑説に過ぎないと否定している(41)。
ヒューベルトの悪評を「軍記」が否定しているのは珍しい。ヒューベルトの悪口ばかりが書かれていると言われないようにバランスを取ろうとしたのか,あるいはより穿った見方をすれば,実際には「エーデルガルトが」ベルナデッタを捨て石にしたという噂が流れたのを,主語をヒューベルトにすり替えたのかもしれない。
竪琴の節(5月)には,帝国領内深くに攻め入ると思われていた王国・聖教会の連合軍は王都フェルディアへと転進,連合軍の到来に呼応して,王都ではコルネリアの圧政に反発した民衆が蜂起した。公国側の混乱に乗じて王都に攻め入った連合軍が圧勝し,コルネリアは戦死。ディミトリは5年ぶりに王都へと帰還し,王都の民は歓喜をもって迎え入れた(42)。
「軍記」では連合軍がフェルディアに転進したこと,コルネリア率いる公国が僅か一月で呆気なく滅んだこと,その両方が想定外であったと記している(43)。公国の救援が間に合わずみすみす王都を奪還されたことで,帝国が5年の間に築き上げてきた優位の殆どは既に消し飛んでいた。
一方でアランデル公率いる東部の帝国軍の軍勢は,連合軍が王都に転進したのを見て同盟侵攻に乗り出していた。クロードからの救援要請を受けた連合軍は,リーガン家領の領都にして,同盟の実質的な首都とされていた水上都市デアドラへと進軍を開始。花冠の節(6月)の末に,既にデアドラ市街へと入り込んでいた帝国軍と激突した。
眼前の同盟軍に気を取られている隙に背後を突かれたことで帝国軍は惨敗,辣腕摂政と評されファーガス公国の仕掛人でもあったアランデル公は戦死した。最早何度目になるか分からない王国・聖教会の圧勝であった(44)。
戦闘が終結した直後,クロードはディミトリに対しレスター諸侯同盟の解散を宣言する。同盟諸侯は王国に臣下の礼を取ることを表明した。これにより300年近く続いたレスター諸侯同盟の歴史に幕が下ろされた(45)。
一方この戦いとほぼ同時期に,ローベ伯の臣従と共に帝国の勢力下に置かれていた城塞都市アリアンロッドが王国・聖教会の連合軍によって奪還されている。ディミトリ率いる王国軍の精鋭部隊が中心となってアリアンロッドを攻略したとされているが(46),同盟の救援に向かっているはずのディミトリがそれとは反対側の王国西部にあるアリアンロッドを攻略していたというのは不可解な話であり,統一戦争の大きな謎の一つとされる。
ジルベール=メテッラは『西部戦線の異状』で,ディミトリがアリアンロッドを攻略したというのは,王国軍の進軍路やディミトリの動向を帝国軍に悟られないようにするための欺瞞工作であり,実際には騎士団長アロイス率いるセイロス騎士団が別動隊となってアリアンロッドを攻略したが,帝国軍のみならず王国の西部諸侯や民衆までもがこの話を信じ込み,難攻不落の城塞都市アリアンロッドをディミトリは見事に攻略したという「神話」が生まれてしまったため,これをそのまま王国の正史として記録に残したという「二正面作戦説」を唱えた(47)。筋は通っているようにも思えるが,この説を裏付ける一次資料は今のところ発見されておらず,推測の域を出ない。
「軍記」によれば,アリアンロッドが王国・聖教会の連合軍によって陥落したという報告の後に,今度はアランデル公がデアドラで連合軍に討ち取られたという報告が入り,当初ベルグリーズ伯は誤報ではないかと疑ったが,その後アランデル公が間違いなく戦死したとの裏付けが取れ,連合軍が一体どのような進軍路を取っているのかについて頭を悩ませたという(48)。
青海の節(7月)には王国・聖教会の連合軍はグロンダーズ平原の南西にあるメリセウス要塞に向けて進軍を開始した。メリセウス要塞の防衛を任されていたのはイエリッツァであり,更にカスパルとリンハルトも援軍として要塞に詰めていた。青海の節の末についに両軍は激突,帝国軍は必死に奮戦したものの連合軍の勢いを止めることはできず,イエリッツァ,カスパル,リンハルトは戦死。連合軍はメリセウス要塞の制圧を完了した(49)。帝都を守る最終防衛線であるメリセウス要塞が陥落したことで,帝国の命運はいよいよ風前の灯火となった。
「軍記」によれば,ベルグリーズ伯は次男カスパルが戦死したとの報告受けた後も,決して人前で弱気な態度は見せなかったが,ある古株の重臣の一人にだけ,「轡を並べて,倅と共に戦いたかった」と本音を漏らしたという(50)。
翠雨の節(8月)になると帝国の崩壊が急速に進んでいった。帝国の敗勢が誰の目にも明らかになったことで,従軍していた地方領主達の前線からの逃亡が相次いだ。自領に引きこもる者,王国に降伏する者,同盟にいる縁者を頼ろうとする者,領主としての立場を捨て教会に駆け込む者など様々であったが,最早これ以上帝国の負け戦には付き合えないというのが多くの地方領主達の思いであった。
あくまで帝国に義理立てしようとした領主が,家来達によって殺害されその首が王国への降伏の手土産にされるという事件も起きており,戦いたくとも家来達の気持ちがついてこないために戦えなかった者も中にはいたと思われる(51)。
「軍記」によれば,この時ベルグリーズ伯は帝都に向けて使者を送った。それは王国との講和をエーデルガルトに上申するための使者であった。使者に持たせた書状の中で,ベルグリーズ伯は以下のように訴えたという。
・長きに亘る戦争により,地方領主や民衆の疲弊は明らかであり,これ以上の兵役や徴税に耐えることはできない
・仮にアンヴァルでディミトリ一党に首尾よく勝利したとしても,セイロス聖教会を倒し王国と同盟を支配下に置くという,当初の目的を達成することは最早不可能である
・アンヴァルの街が戦火にさらされるようなことになれば,帝国の再建は大きく遠のくことになる
・今は民力を休養し,国力を回復させることこそが将来,陛下の大望を実現する上での一番の近道であると愚考する
・ベルグリーズ家一門は今後も陛下とフレスベルグ家に忠節を尽くし,帝国再建のための奉公に身命を賭す所存である(52)
しかしながら,王国との講和が成立し戦争が終結すれば,これまでの失態の責任を取らされ陛下から切り捨てられると危惧したヒューベルトは,ディミトリは交渉相手として信用できないと強硬に主張。更にはベルグリーズ伯の嫡子を陛下が重用していないことに対して伯爵は以前から不満を抱いており,既に王国に通じている疑いがあるとの讒言を行った。
結局陛下はヒューベルトを初めとする,今の地位を失うことを恐れ講和に反対した君側の奸達に押し切られ,講和せずに戦う道を選択してしまう。戻ってきた使者から報告を受けたベルグリーズ伯は,ヴィルヘルム帝以来1200年続いた帝国の歴史が我らの代で絶えてしまうと,重臣達の前で嘆いたという(53)。
以上が「軍記」の筋書きである。明らかに帝国が劣勢であるにもかかわらず,保身のために講和に反対したこと。エーデルガルトの皇帝即位を後押しし,開戦後も一門や寄子の下級貴族,地方領主らに動員をかけ,自身も最前線で自ら武具を取って戦い,メリセウス要塞では愛息をイエリッツァの援軍につけるなど,帝国と皇帝に対し比類なき奉公を続けてきた臣下の鏡であるベルグリーズ伯を裏切者呼ばわりしたこと。これこそがヒューベルトが帝国を滅亡に導いた「奸臣」であるとされてきた最大の根拠である。
果たして,「軍記」のこれらの主張は事実なのだろうか。まずベルグリーズ伯が皇帝に上申するための使者を帝都に送った件については,帝都にいた文官の記録が残されていることから,これは事実と見ていい(54)。内容については一次資料による裏付けがないものの,状況から考えて王国との和睦を求めるものであった蓋然性が高い。地方領主達が次々に脱走し残った兵達の士気も低下する中で,これ以上戦えないというのは前線にいたベルグリーズ伯が一番感じていたことであろうし,終戦を期に帝国内部の権力構造を見直し,ヒューベルトら側近集団から主導権を奪い返したいという政治的な計算も恐らくはあったであろう。
しかしながら,ヒューベルトが講和に反対したから帝国が滅亡したのは妥当ではない。聖教会の司教が残した日記によれば,ディミトリとベレトが戦いの前にエーデルガルトと会談の場を持つことを聞かされたこの司教は,大司教補佐セテスに対し,会談そのものには反対しないがあのエーデルガルトが今更講和するとは思えないと述べたところ,セテスはその言に頷いた上で,こちらは手を差し伸べたのに向こうがそれを撥ねつけたという形を作っておくことにこそ意味があると答えたという(55)。これは,聖教会からは他ならぬエーデルガルトこそが,最大の徹底抗戦派であると見なされていたことを意味する。
そもそも当時,フォドラの大多数の人間が信仰していたセイロス教を否定し,フォドラの全土を巻き込んだ戦争を起こすという時点でエーデルガルトの発想は尋常のものではない。エーデルガルトは目先の損得や既存の常識・伝統よりも自らの信念を優先し,我が道を行く人間なのである。ヒューベルトに反対されたから講和しなかったなどというのはエーデルガルトの主体性を無視しており,実態に即していない。
讒言の件についても,エーデルガルトに講和の意思が無い以上,わざわざベルグリーズ伯を貶める必要性がヒューベルトには無く,これも「軍記」の曲筆であると考えられる。
「軍記」によるとこの後,ベルグリーズ伯の重臣の一部から,西部戦線を放棄しアンヴァルに馳せ参じるべきだとの声が上がったが,西部の国境付近の領主からは「ベルグリーズ伯の軍勢がいなくなれば王国軍が報復のために国境を越えて押し寄せてくる。西部の有力貴族であるアランデル公が戦死した今,ベルグリーズ伯の庇護が無ければ我々は生きていけない」との嘆願が相次いだという。結局,陛下から帰還せよとの命令を受けていない以上,与えられた持ち場を守るのが道理であるとの原則に立ち,西部戦線に留まることを選択したという(56)。
翠雨の節の末,王国・聖教会の連合軍がついに帝都アンヴァルに侵攻し,ヒューベルトは市街地で戦死。エーデルガルトは宮城でディミトリに討たれた(57)。この後,ベルグリーズ伯は自身の首と引き換えに帝国兵全体の助命嘆願を行った。ディミトリがこれを受け入れたことで,帝国軍の武装解除も進みフォドラ全土で戦闘が終結する。1186年角弓の節(9月),ゲルズ公が降伏文書に調印し,これをもってアドラステア帝国は滅亡した。ここに5年半に及んだフォドラ統一戦争は終結した(58)。
「軍記」は自らの命と引き換えに帝国の将兵を守ったベルグリーズ伯の行いを,未来永劫語り継がれるべき天下の美挙であると激賞している。伯爵閣下のような聖将が存在したことが,多くの人命が失われ帝国が滅亡した先の戦争において,数少ない救いであるとも評している(59)。
5.帝国滅亡の真実
これまで見てきたように,ヒューベルトが帝国を滅ぼしたという「軍記」の主張は根拠に乏しく,当時の状況と整合が取れない。ではなぜ「軍記」はそのように記したのであろうか。
エーデルガルトが愚かな皇帝だったから帝国は滅んだとした場合,そのようなエーデルガルトの即位を後押ししたベルグリーズ伯にも責任があるということになってしまう。ベルグリーズ家の旧臣達にとってベルグリーズ伯は永遠の聖将であり,そこに過誤があってはならない。しかしながら,エーデルガルトが名君ならば,なぜ帝国が滅亡したのかという矛盾が生じてしまう。
そこで生み出されたのが,「エーデルガルトは名君の器を持っており,それ故にベルグリーズ伯はエーデルガルトを支持したが,君側の奸により惑わされその素質は曇り,ついには道を誤ってしまう」という筋書きである。つまり奸臣ヒューベルトというのは,ベルグリーズ伯擁護のためのレトリックなのである。
では帝国滅亡の本当の原因は何だったのであろうか。よく言われるのは,ディミトリやベレト達が強すぎたからということだが,それよりも注目すべきは王国西部の大半を支配下に置いた1182年の終わり頃からディミトリが帰還する1185年の終わり頃までの停滞の3年間である。この3年間の間にフラルダリウス公を打倒してさえいれば,その後にディミトリ率いる王国軍の戦力は史実よりも遥かに小さなものとなり,戦局の推移も違ったものになっていただろう。
帝国軍の最大の誤算は冬季戦への準備不足である。ファーガスの冬の寒さに帝国軍が苦しんでいたことは「軍記」の中にも書かれており,戦争を生き残った兵士達の回想でも,その多くが冬季戦の苦痛に言及している(60)。アドラステアの冬で使われるような外套は,雪中戦においては水分を吸ってしまい,防寒機能を失ってしまうことが多々あった。外套ではなく内側に着込むような防寒具が良いのではないかという案が出るなど,試行錯誤していた様子がうかがえるが,結局終戦までにこれという結論は出ず,そもそも防寒具の絶対数が足りていなかった(61)。これが帝国軍の侵攻が停滞した最大の原因である。
6.おわりに
当初ディーテリヒは「軍記」の写本を親類縁者にだけ配っていたが,1200年代初頭にフォドラで活版印刷が発明されると,ディーテリヒが働いていた商家の番頭であるエックベルト=ギューデンはこれを新たな商機であると捉え,ディーテリヒの許可を取った上で活版印刷により「軍記」を大量に印刷し,一般向けに販売を行った。「軍記」の文体が平易で庶民にも読みやすかったこともあり,「軍記」は活版印刷の黎明期における代表的なベストセラーとなった(62)。
後発の軍記物である『エーギル盛衰記』や『アンヴァル物語』には「軍記」から引用されたと思われる記述が多々ある。また「軍記」の中のエーデルガルトやフェルディナントの描写が,彼らを題材とした歌劇の内容にも反映されており,「軍記」はその後の文化史にも影響を及ぼしている。ディーテリヒは「軍記」がここまで世間に広まるとは予想していなかったようで,こんなことになると分かっていたら,もう少し内容を推敲していたと周囲に漏らしたという(63)。
ディーテリヒは晩年に『アドラステア逸話集』という短編の書物を出版している。「軍記」には書ききれなかった帝国時代の話を書き綴ったものであるが,「軍記」と比べて内容にまとまりがなく,方向性が不明確であったことからこちらはあまり売れなかった(64)。この本の中で,このような逸話が挟まれている。
士官学校時代,カスパルは攻撃の合間に叫ぶのが癖になっていたが,ある時叫んだことで待ち伏せていた敵に気づかれて襲われるということがあったので,それからは叫ばなくなった。それを見たヒューベルトはカスパルに対して,周りの者はもうカスパルの大声に慣れてしまっており,それによって皆の士気は高まり,戦場が混乱しようとカスパルの指示は届くという利点が存在するので,欠点を考慮しても以前のように大声で皆を奮い立たせた方が良いと助言した。それを聞いたカスパルは自信を取り戻し,持ち味である大声をまた響かせるようになったという(65)。
心温まる逸話と言っていい内容であるが,「軍記」の中でヒューベルトを亡国の奸臣と糾弾したディーテリヒが,なぜこのような話を書いたのであろうか。その理由は,主君であるベルグリーズ伯の名誉のために帝国滅亡の責任を背負わせたことへの,罪滅ぼしだったのではないだろうか。今後ヒューベルトに関する議論が深まり,その実像が明らかにされることを期待する。
〔 注 〕
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セシリオ=ザガロ『ベルグリーズの騎士 ディーテリヒ』オルレアン社新書,1748年,p18
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『ベルグリーズ軍記』(以下『軍』と略称),p20
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『軍』,p14
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『軍』,p56
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『軍』,p60
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ドナティアン=ダロス『アドラステア貴族名鑑』ガルダ書店,1730年,p46
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『軍』,p65~p74
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『軍』,p77~p84
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『軍』,p86~p90
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『軍』,p145~p146
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『軍』,p153
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『軍』,p154
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『軍』,p156
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『軍』,p159
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『軍』,p161
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『軍』,p166
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ジェイク=エクレストン『ベルグリーズ家研究の最前線』グルニア書院,1749年,p130~p136
-
『救国王記』(以下『救』と略称)巻三,p210
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『聖教会聖戦史略』(以下『聖』と略称)巻一,p134
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『軍』,p172~p173
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『救』巻三,p251~p278
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『軍』,p177
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『軍』,p175
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『軍』,p183
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『軍』,p184
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ハルトヴィヒ=ベック『フラルダリウスの防衛戦争』ディール社出版,1743年,p52~p70
-
『軍』,p189~p225
-
『救』巻四,p182~p190
-
『軍』,p231~p232
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『軍』,p233
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ロジャー=クロズリー『ファーガスの冬将軍』グルニア書院,1747年,p43~p45
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『救』巻四,p202~p204
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『聖』巻二,p166~p167
-
『軍』,p238~p242
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『救』巻四,p268
-
『軍』,p243~p247
-
「ゼーゲブレヒト文書」,p119
-
『軍』,p248
-
『救』巻四,p275~p283
-
『軍』,p255~p266
-
『軍』,p267
-
『救』巻四,p382~p445
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『軍』,p271
-
『軍』,p279~p280
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『救』巻五,p68
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『救』巻五,p30~37
-
同氏『西部戦線の異状』竪琴出版,1744年,p251~p264
-
『軍』,p281
-
『軍』,p290~p295
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『軍』,p297
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レミ=ミシェラン『地方領主の一分』アカネイア出版,1746年,p260~p273
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『軍』,p309~p311
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『軍』,p312~p315
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「ヴェーグマン文書」,p230
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『中央教会雑事記』1186年翠雨の節14日条
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『軍』,p316~p321
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『軍』,p322~p325
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『軍』,p326~p348
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『軍』,p350~p351
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前注(31)p77~p79
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前注(31)p214~p223
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前注(1)p180~p187
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前注(1)p189
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前注(1)p206
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『アドラステア逸話集』p60~p71
作成者:モブうご様